ことばのかべ3

でもやっぱり同じ条件で比較した時、目に入って来やすいのは圧倒的に日本語。すくなくとも僕のレベルでは。
たとえば街中なんかで日本語を見かけたり、通行人が喋ったりしているのを聞くと、それはもう背髄反射並みに反応するわけです。

特に、このごろ考えるのが、「活字」について。
先日、中国の友人ハンくんとお酒を飲んでいると、なぜか象形文字の話で盛りあがり、いびつな鳥の絵とかをたのしく描いて遊んでいたのですが、そこで思ったのが、文字文字って呼んではいるけど、これってただ線が組み合わさった図形、さらに言えばピクチャーなんだよねということ。

Wordで打ってもペイントで描いても、とんねるずがタイツ着て壁に張り付いても、文字になっちゃうよと。

僕らは、目に映るその「画像」を一瞬でパターン化して意味を見出しているだけで、英語もタイ語スワヒリ語も日本語も、使ってるインクとかドットの量はさほど変わらない。ただの白黒のピクチャー。

そういった意味で、さきほど使った「目に入ってくる」という表現は、なるほど、的を得た言葉なのかもしれません。

前回のエントリで、「言語による一貫した理解」という表現をしたけれど、突き詰めるとその難易度はこのパターン認識のためのパターンをいかに多く、しかもできるだけ上の方の引き出しに入れておけるか、というあたりに依存してると思う。

ところで、「ゲシュタルト」という言葉があって、これはそういうパターン化ともちょっと意味はズレてしまうのかもしれないけど、バラバラなものを統合して意味を見出す能力というか、そういう概念です。

僕らは普段、流れる活字を追いつつ、一つ一つの文字と呼ばれるピクチャーを認識して、「あ、これってにほんご!」って思って、周りの文脈と照らし合わせて、記憶と照合したりして、ああこういう意味ねと理解しているわけだけど、こういった構造化の流れがゲシュタルト。間違ってたらすいませんけど。

それで最近、ピクチャー云々を考え出して一人でふふとか笑うようになってから、どうも不思議な感覚に襲われることが多くなったわけです。
日本語が「あたりまえ」の環境下に居ないのも手伝っているのだと思うのですが、たとえば『う』という文字(あえて文字と呼ぶ)について。とりあえず以下を30秒ほどジットリと見つめていただきたい。





               う





なにか変な感じがしないですか。
僕なんかは、これじっと見ていると、これが『う』だという確信が、意識からするりと「抜け落ちていく」瞬間が確実にやってきます。
こんなへんなカタチのが日本語だっけ?上にくっついてる「’」ってどういう意味だっけ?といった按配で、なんというか、バラバラに見える。
他の文字もたぶん同じような感じ。

こういう感覚は、実は個人的には昔からあるにはあって、園児のころは蛍光灯の輪っかの傍についてる小さな電球?周りの構造なんかが、ずっと「親と子供の顔の図」に見えていたり、またある時は、人間の身体と頭のサイズ比に奇妙な違和感を覚えて、その人がだんだん人間に見えなくなったり、なんていう遍歴を持っていたりする。(へんな子供!) 
まぁ、このエピソードはちょっと違うのかもしれないけど。 

ともかく、こんなかんじで構造化が出来なくなったりする事を、ゲシュタルト崩壊なんて言うらしいんだけども、「にしこり」が松井選手の顔に見えるのも、「ぷァ」が跳ねるイルカに見えたりする(※要修行)のも、この構造化能力が起こす一種の錯覚なのだ。還元主義に陥ってしまうと全体を把握することが難しくなる事と、根底は似ているのかもしれません。
これは科学にも共通することなので、肝に銘じておかねばなあ。

それでまたすごく話がずれたけれど、この構造化能力(文字の認識というより、この場合文脈の認識)は、言語をある程度のレベルで操る上では必須なわけなんだけど、このたびの僕のにほんごに対するゲシュタルトが崩れかけてる件について、もしその理由が日本語への曝露が減った事によるのであれば、逆に英語に関しては引き出しは増えてるはずだよなぁと、ちょっと複雑なきぶんなわけです。やっぱり、地道な努力でいかに多くのパターンに触れていくかにかかっているんだろうなぁ。しょんぼり。

ただ、「思考の構築」と「言語の構造」の関係性について思うのが、洋書の翻訳や方言なんかにも共通するのだけど、

『それぞれの言語によって思考パターンが変わってくるのではないか』

ということ。これはただ僕の英語力が足りないために起こっているのかもしれませんが、こういったことが、いろんな国・言語圏の人々のナショナリティや性格をそれぞれ個性的たらしめているのかもしれないと考えると、とても興味深い。
これは僕が、「文化を深い部分で理解するには、その国の言語への理解は必須だ」と信じる理由でもあります。
もしそうだとして、さらに言うなれば、ものすごいマルチリンガルの人なんかだと、割とハイブリッドというか、より柔軟な考え方ができるんじゃあなかろうかとか思うわけです。60Hzと50Hz兼用みたいな。そういえばこないだその手の研究のニュースが載っていましたが。ただ同時に、ある種の不安も付きまとうわけです。

さて、そんなかんじの境地に達することが出来たら、もしかして世界は違って見えるんだろうか。それとも・・・。

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