ことばのかべ2

それで、「思考を英語で一から再構築する」、なんてのも、環境が環境なんだしちょっと覚悟きめてやれば出来そうな響きだけど、アタマの中のもやもやーとかも全部移し変えるなんてのは、相当の苦労と時間、狂気その他諸々を要するのだろうなあと、感じられるくらいにはなったということかなと。「痛」が「アウチ」になったりすることなんぞよりもずっとずっと先の話だ。

というより、自分の考えていることが、実際どこまで「思考の過程で」言語化出来ているのか。今もなにか手が勝手にタイプしてくれているような錯覚さえあり、思考と言語の境界線すら正直よく分からないのもあるんですが。
昨日挙げたすごく分かりにくい例え話だと、「なんとなくイメージして済ませ」ている部分は、言語化していない部分なのかどうか、というところ。ううむ。「している」に、100ペソー。

それで、アレです。話が逸れましたが、それぞれの回路を臨機応変に繋ぎ合わせてサバイブできれば、それが理想なのかもしれないけど、特に同一の会話内においては、実感としては難しい、というより面倒くさいというのが本音。

これはたとえば、名詞を例に挙げると、「Nationalism」と「ナショナリズム」と「愛国心」。辞書の上では同義とされているこれらの単語ですら、それぞれまったくのイコールではない場合が、多々あります。
特にカタカナのナショナリズムには、日本の歴史的背景から、また違ったニュアンスを多分に包含する場合もあるわけです。

今の例はやや極端かもしれないけど、こんな風に、そのコンテクスト次第でスムーズに当てはまらない言葉やフレーズがある(厳密には、殆どのトランスレーションは「近い意味である」というだけなのかもしれない)ということが、それぞれの言語による思考の行き来を面倒にしている原因の一つかもしれません。
イメージとしては、「絵柄は同じだけどピースの規格が違うパズル」のような。(そう考えると、通訳ってのは、大変な仕事だなぁ!)

そんなわけで、たとえば特定の領域について日本語で勉強したことがあれば、英語でそこから先の情報を手に入れる場合、もともとの情報のおかげである程度の全体像は掴むことが出来るし、土台の概念が理解できているため、随分やりやすいのは事実。だけどそこから先に英語でインプットすると、直接は連続しにくいような気がします。枝が伸びるのではなく、接木をする感覚。なんだかこまかい話ですが、個人的に。

それはたぶん、どちらかの言語で一貫した「理解」をしないといけないからで、英語の文献のあとに日本語で補完しようとしても、しっくりこないというのは言いすぎかもしれないけど、なんとなく別のことをやってるような、ちょっとした違和感があります。