ことばのかべ1

海外生活もそろそろ長くなってきたかな、という実感とともに、改めて思うのが、日本語ってやっぱすごいわ ということ。

単に他の言語の細かい部分を知らないってだけなのかもしれませんが、日本人の感情を表すのには、日本語は最も適した言語だと思う。
これってすごくあたりまえの事を言っているようだけど、このへんに関して感じてることを、ちょっと掘り下げつつ独り語りします。

インターネットがある限りは、いかな海外暮らしといえども「日本語に餓える」というようなことは実感としては薄く、メールひとつとっても、たとえば日本の友人の携帯電話なんかと簡単に通信できたりするわけで(筆不精につき、めったに実践しませんが)、先日も、「おまえは、ホントに海外にいるのー?」と訝られました。

そういった意味では、世界は十数年前に比べ、ずっと狭くなった。
というよりは、個人的には「国境」の概念の変遷だと思うのだけど、これはまた別の機会に。
で、日本語の話ですが、「ある程度の日本語は読み続けていないとなにかマズイ」という、ジワジワとした、それでいて本能的な悪寒を常に感じており、たまに古本なんかも漁って読むようにしています。

この辺の話は、たまに留学生同士で話していて出てくるのだけれど、英語がプライマリでない限り、思考の発露をより100%に近い形(当社比)で行えるのはやっぱ母国語だよねえということ。

いちいち日本語→えーと→英語なんてやってたら、”とっさのひとこと”なんかに関しては絶望的に厳しいし*1、自分の専門領域に関してはなんとか英語で組み立てられているので、ある程度は英語での思考回路も培われてはいるのだろうけど、なんというか、時折思考がひどく単調になっているのにはたと気がついて、ものすごくヒヤリとする。

いうなれば、大まかな骨格模型だけ作っておいて、でもその後の細かい材料がちょっと手元に無いから肉付けした後の姿はなんとなくイメージして済ませてご満悦。で、ある時ふと、「ほほ、骨だけジャン!」って愕然とするような。
ですよね。余計わかりませんよね。

そんなわけで、ある程度複雑で繊細な概念や、「頭しぼって最後にやっとぽたりと耳から出てくるようなもの」の類の構築過程に関しては、僕らをここまで育んできた日本語の語彙や表現なんかは、必須なんではなかろうか、と改めて思ったりするわけです。むしろ、日本語の方にかなり分がある、という表現のほうが適切だろうか。

とはいえ、英語での思考も、英語圏でやっていくためには非常に大切なことなので、なかなか悩ましい部分ではあるのだけど。